第1章 労務管理の歴史
第2節 労働安全衛生法成立と改定の歴史
千鳥ヶ淵研究室 研究員 長井千宙
労働安全衛生法(以下安衛法と記載)とは「職場における労働者の安全と健康を確保」するとともに「快適な職場環境を形成する」ことを目的に定められた法律であり、その成立と施行は昭和47年(1972年)のことであった。この目的の実現のため、同法では「職場内の安全管理体制の整備」、「安全衛生教育・健康診断などの実施」等を義務付けるよう規定しているが、このような規定やあるいは規定の改定にはその当時の社会背景が密接に関係していると考える。そこで、本節では規定や規定の改定の背景をみることで、安衛法の成立・改定の歴史とその歴史から今後どのような方向をたどるのか予測を試みる。
1、労働基準法としての「安全及び衛生」と安衛法の成立
第1節にも言及があったが、戦後日本の民主化政策の一環としてGHQにより推し進められた労働組合の結成の流れを汲み、昭和22年(1972年)に労働基準法が制定された。そして、その中に「安全及び衛生」(第5章)という章として組み込まれたのが安衛法の原型である。では、なぜ現在のように一つの法として成立するに至ったのか。成立要因として、水間氏は著書『労働法』(2007年初版 株式会社有斐閣)において、技術の高度化や生産過程の複雑化から上記労働基準法内の規定では対応が難しくなり、労働災害の増加に対してより多角的・総合的な法政策の必要性が高まったと述べている*1。この技術向上や生産過程云々については、年数から日本における高度経済成長であると考えることができる。つまり、安全衛生法成立の背景には高度経済成長期*2の存在がうかがえるということである。
高度経済成長期、日本は①米欧の技術導入②技術革新による大規模な設備投資と新産業開発に特に注力した。それは作業時間の短縮や人員の削減に大きく貢献した。しかし、技術導入・革新は実質的な労働時間の延長と個人の労働負荷の増大を招く側面があった。実際に、昭和30年(1955年)から昭和35年(1960年)までの所定労働時間は上昇推移であり、昭和35年以降は時間短縮の傾向が見られるものの、その傾向は大企業に限られ、中小企業については週の所定労働時間が45時間以上の階級に属する企業は90%前後と高水準で停滞している(1969年9月労働省「賃金労働時間制度総合調査」 )。こうした結果、労働者は慢性的な判断力の低下を訴えた。
また、機械装置の操作や扱う化学物質の複雑化も問題となっていた。機械の操作事故や使用する化学薬品による喘息発作や特異中毒、皮膚炎等新しい職業性中毒には以下の表1*4のようなものが指摘された。これらの増加した業務上疾病や職業病(註:)は先に述べた生産工程の複雑化による弊害であるといえる。
表1
以上のように、高度経済成長期を経て日本は新たに対応すべき労働環境の課題が発生した。その複雑な問題内容と発生件数の増加は、それを想定していない昭和22年当時のものでは限界があり、安衛法として単独で制定されるという流れは必然ではないかと考える。
2、現代の安衛法の改定 過重労働とメンタルヘルスを中心に
上記背景をもつ安衛法は、その成立からも世の変化に応じて新たに対応すべき労働環境の課題や労働災害に即してその都度変化・改定を必要とする現地主義的性格が他の法律よりも強いのではないだろうか。そのような性格を踏まえた上で、成立以降の現在までにいたるまで、法改正として大きく取り扱われてきたものに「過重労働とメンタルヘルス対策」が挙げられる。過重労働とメンタルヘルスの問題について、堀江氏は自身の研究である『産業医と労働安全法の歴史』において21世紀の労働衛生政策の重視項目であった事、また、実際にこの問題に対応すべく産業医職務の比重が増えた事を述べている*5。また、同研究内で過重労働の対策が平成17年(2005年)の法改正で、メンタルヘルス対策は法改正ではないものの平成12年(2000年)に示された心の健康に関する指針を皮切りとしていることが述べられているが*6、直近でも平成31年(2019年)4月に関連する法改正が行われている。
では、成立期と現在の間でどのような社会的変化があったのか。1980年代末以降、日本は一時的にバブル景気を経験したものの、平成3年(1991年)にその崩壊を迎えて以来、日本の景気は低迷しているといわれている。そして1990年代中頃以降、所謂「就職氷河期」時代に突入し、非正規雇用の労働者が増加したという変化があった。その結果、好景気時よりも少数となった正規社員への負担はその分増え、先に述べた高度経済成長期とは別事由で長時間労働を常態化させることとなっていたようである。
ここで、過労死と精神障害の労災件数を見てみたい。表2、3は川人氏の過労死・過労死自殺の研究資料から引用*7しているが、①過労死等の件数は昭和63年(1988年)以降徐々に増加傾向にあり、②過労自殺を含む精神障害の件数は平成7年(1997年)から増加の幅が大きくなっていることがわかる。
表2
表3
自明ではあるが、長時間労働(過重労働)は心身への悪影響を与える。厚生労働省が定める過重労働の基準は、時間外・休日労働が月100時間超、または2-6か月平均で月80時間超となることとしている。そのような基準を踏まえたうえで表2と3からうかがい知れることは、過酷な労働環境が現実として存在していること、また、こうした問題を踏まえて出される法改正や追加規定から明るみになってきたということである。先に述べた平成31年の法改正では、①すべての労働者(管理監督者含む)の労働時間の適正な把握を事業主へ義務化(第六十六条の八の三)②産業医による勧告の強化(第十三の5)③長時間労働の面接指導基準が「時間外・休日労働時間80時間超/月」へ引き下げ(第六十六条の八)が主要な改正点としてあげられる。このような改定から問題を問題として認識し、労働者自らが過酷な環境を訴えることができるようになるのだ。そのようにしてみると、法改正によってその問題からある種自衛を促すような点は、安全や健康といった労働者も使用者も平等に守るべきものについて規定をする安衛法の特有の性格として見えてくるのではないだろうか。
3、未来の安衛法の姿
以上、安衛法の成立と改定の背景を眺めてきたわけであるが、やはり安衛法という法律の目的上、社会情勢反映の性格は強い。そのため、安衛法の未来の改定や方針の予測という面では他の法律よりもある程度ハードルが低いのではないかと考える。
例えば、昨今様々な場面で触れる「SDGs」という言葉に注目してみたい。そもそもSDGs(Sustainable Development Goals)は「持続可能な開発目標」と和訳され、2015年9月の国連サミットで加盟国の全会一致で採択された「持続可能な開発のための2030アジェンダ」に記載された,2030年までに持続可能でよりよい世界を目指す国際目標のことであり、17のゴールと169のターゲットで構成されている。この目標の中に「8.働きがいも経済成長も」というものがあり、これはまさに、安衛法の目的と重なる要素であるだろう。
産業医科大学の永田氏によると、この目標8において労働安全衛生が重要な一要素であることを示したうえで、「3.すべての人に健康と福祉を」のグローバル指標には先に述べた過労死・過労死自殺問題に関連がある心血管疾病の死亡率や自殺率の記載もあることから、これらは安衛法の健康診断、メンタルヘルス対策への関連があると述べている*8。つまり、安衛法においても今述べた目標に重点が置かれた改定が今後期待されるのではないだろうか。そして、この目標が現在世界規模で認識され取り組まれていることを踏まえると、日本の安衛法はもはや日本だけの背景や社会状況を反映した姿になるのではなく、世界の状況を映した、世界水準の法律になる未来も見えてきているのではないだろうか。
4、おわりに
本節では、労働安全衛生法が労基法から独立して成立するまでと成立以降、現代まで重要課題として扱われた過重労働問題にかかる法改正の過程を歴史的事実とすり合わせることで、成立や法改正の意味について探ってきた。また、そこからみえてきた安衛法の現地主義的性格から、未来の安衛法の姿についても少し予測を立てた。アメリカの人文学者マーガレット・ミード氏は「未来とは、今である。(The future is now.)」と語ったが、日本の安衛法の背景を追った今、まさにこの言葉が重みを増す。
「今」の社会情勢を反映し、問題を問題であるとして提示する。安衛法の歴史から見えたものは、当時の人々や私たちの「今」の歴史であった。
次節では、男女雇用機会均等法の制定に伴う改正について述べていくこととする。
本文注釈及び引用
*1:(1)第8版268ページ「1労働安全衛生」3-6行目
*2:日本の高度経済成長期は一般的には昭和30年(1955年)頃から昭和48年(1973年)までの実質経済成長率10%におよぶ高度な経済成長を指す
*3:⑵290頁5-8行目
*4:⑶30頁第1表新しい職業性中毒より引用(出展:東田 敏夫『「職場の労働衛生点検と斗争」『賃金と社会保障』』No.603,1972年6月上旬号)
*5: ⑷19頁 6)過重労働政策とリスクアセスメントに関する法改正1-3行目
*6:⑷19頁 6)過重労働政策とリスクアセスメントに関する法改正11-14行目、23-26ページ
*7:⑸21頁
*8:⑺38頁 2.CSR/ESG/SDGsにおける労働安全衛生の位置づけ
参考文献
- 水間 勇一郎『労働法』2007年初版 株式会社有斐閣
- 山下 隆資『「高度成長」と労働時間・労働強化・労働災害』香川大学経済論叢 香川大学経済研究所 編 44 (3)286-312頁
- 仙波 恒徳『高度成長と職業病, 労働災害』長野大学紀要 3-4 23-36, 1974-12-25
- 堀江 正知『産業医と労働安全法の歴史』〈Journal of UOEH 〉2013 年 35 巻 Special_Issue 号 1-26頁 第1部 「産業医制度」産業医と労働安全衛生法の歴史
- 川人 博『過労死・過労自殺の現状分析と政策的対応(<特集>健康のための社会政策)』URL:https://www.jstage.jst.go.jp/article/spls/4/2/4_KJ00008229609/_pdf/-char/ja
(2023/9/22 18:00最終確認)
- 外務省設置ホームページ「SDGsとは? | JAPAN SDGs Action Platform |」URL:https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/oda/sdgs/index.html(2023/9/22 18:00最終確認)
- 永田 智久『教育講演② ESG/SDGは労働衛生の水準を引き上げるか』2022 年 日本産業保健法学会誌1巻 1号 37-40頁
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